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第27回 「多武峰・桜井・飛鳥ツアー」散策会(05/11/19〜20)

 コース:11/19 桜井駅→(昼食)→談山神社→聖林寺→上之宮遺跡→艸墓古墳→安倍文殊院→飛鳥寺研修会館
11/20 飛鳥寺研修会館→飛鳥坐神社→飛鳥寺→蘇我入鹿の首塚→酒船石→伝・板蓋宮跡→川原寺跡→橘寺→二面石→岡寺→石舞台古墳→(昼食)→水落遺跡→甘樫丘→蘇我入鹿邸宅跡発掘現場→亀石→天武天皇陵・持等天皇陵→鬼の俎・鬼の雪隠→欽明天皇陵→猿石→高松塚古墳→高松塚壁画館→飛鳥駅

 参加者:12名

■昼食

 談山神社バス停から急な石段を下り、たこ焼きの露店などを通り過ぎると土産物屋さんが数軒並んでいます。こんにゃくが特産物のようで、フランクフルトのような感じで味噌・辛子の田楽を立ち食いしている人も見受けられます。

 雑踏の一員として店先を見ながら歩いていると「ここだ」の声。一軒の店の上に「紅遊茶屋」の看板があり、確かに予定の昼食場所です。奥行3m程しかない店の奥側にテーブルがありました。

 土産物と一緒に値踏みされながら、うどん・そば等をいただきました。松茸うどんを張りこむ人がいる一方、山菜そばに松茸が入っていたという人もいます。お店も忙しいんでしょうね。

■談山神社(たんざんじんじゃ)

 今回のツアーのスタートは、多武峰(とうのみね)にある談山神社です(ほんとはお昼ゴハンがスタートでしたが)。

 藤原鎌足を祀るこの神社は、中大兄皇子(天智天皇)と鎌足が、蘇我入鹿を攻めるはかりごとをした場所といわれ「談山(かたらいのやま)」と呼ばれたことからこの名前がついたそうです。おりしも紅葉真っ盛り。ツアー日程が延びたおかげで紅葉ツアーともなりました。

 今回のツアーは、「飛鳥・万葉の里めぐり」が表テーマなら「大化の改新」が裏テーマ(?)。この談山神社で中大兄皇子と鎌足がはかりごとをし、明日訪れる「飛鳥寺」で中大兄皇子と鎌足が出会い、「板蓋宮(いたぶきのみや)」で入鹿が暗殺され、「入鹿の首塚」まで入鹿の首が飛んでいった・・・。そして今年は「ムシモコロサヌ大化の改新645年」から1360年目だそうです。

 談山神社一番のみどころは、鎌足追悼のために建立された「十三重塔」。神社に塔? という感じですが、もとは鎌足追悼のための妙楽寺というお寺であった名残です。680年に建てられ、現在の塔は1582年に再建されたもの。檜皮葺の屋根がおりなす13のリズムが大変美しく、気品のある塔です。いつまでも眺めていたい気持ちになりました。

 いっぽう、本殿と拝殿は朱塗りの豪華な造り。特に本殿は日光東照宮造営の参考になったそうです。さすが、藤原氏。どちらも重要文化財になっています。紅葉の中で拝見するとより一層華やかでした。

 個人的には、「十三重塔」と同じくらい心惹かれたのが閼伽井屋(あかいや)でした。定慧和尚(鎌足の長男)が法華経を講じた時に、龍王が現れ、泉が湧き出したといわれる場所に古い祠が立っています。周りの華やかな雰囲気のなか、この閼伽井屋には静かな清浄な空気がただよっていました。翌日訪れた岡寺は正式名称は龍蓋寺(りゅうがいじ)。龍を鎮めた由来のあるお寺で、このあたりの水への信仰がうかがえます。裏テーマのおまけというところでしょうか。

■聖林寺

 談山神社からバスで北へ。聖林寺のバス停で降りると、のどかな田園風景の中、小高い山の中腹に落ち着いた佇まいの寺が見える。それが霊園山聖林寺である。

 鎌足の長子、定慧を開基とし、藤原氏の氏寺妙楽寺(現・談山神社)の別院として創建された古刹である。山門からの眺めは素晴らしく、遠く三輪山、箸墓などの古墳群を含む大和盆地の東半分を一望することが出来る。門前では千両が赤い実をつけていた。境内に入ると意外なほどこじんまりとしている。受付で朱印帖を預けて本堂にはいる。

 ここのご本尊は元禄時代に作られたという石造りの子安延命地蔵である。見てビックリ! ともかく大きい、色白の巨大なるお地蔵様である。安産と子授けに霊験あらたかなるそうであるが、私にはちと遅すぎた。(^^;)

 脇には如来荒神という聞きなれない仏様がおられ興味をそそられた。また、その隣の部屋にはフェノロサが寄進したという厨子があり、この部屋からの眺望も素晴らしい。さて、そのフェノロサが秘仏の禁を解いた国宝・十一面観音様といよいよご対面である。

 本堂から渡り廊下の階段を上ると観音様のおわします観音堂(大悲殿)があり、開かれた扉の向こう、正面にまっすぐと・・・・・

 「息を呑む」とは、まさにこのことを言うのであろうか。その気高く優美なお姿は、いったいこれが人間の手で作り出されたものなのか? と、疑いたくなるほどの神々しさであった。

 元は大神神社の神宮寺(神社に付属して建てられた寺)、三輪山・大御輪寺の本尊であったのが、明治の神仏分離・廃仏毀釈の波が襲う直前に、大八車で三輪からこの寺に運び出されて破壊をまぬがれたという。(ああ、よかった♪)

 天平時代の優品としてあまりにも有名な木芯乾漆像であり、今まで多くの本や雑誌でその写真を見て美しいとは思っていたが、実物の持つその霊的存在感の大きさは、実際にお会いしてみないとわからないものだった。心が震え、目頭が熱くなる感動に、いつまでもその場を立ち去りがたい思いであった。

 なお、別室の座敷では11月30日までマンダラ展も催されており、貴重な仏画が何の隔てもなく間近に見ることが出来る。

■上之宮遺跡

 聖林寺から北上し、住宅地の公園のようなところが遺跡でした。

 ここは6世紀前半から7世紀初頭の邸宅の遺構で、発掘当初は聖徳太子が青年期を過ごしたとされる上宮(かみつみや)と騒がれたそうです。ただ他にも上宮の候補地はあり確定していません。

 遺跡全体は東西5、6十m、南北100mだそうですが、公園部分は十数m四方しかありません。周りの住宅や道路下に埋め戻されたのでしょうか。

 見えているのは石敷きの園地の跡です。両側を石で固めた幅50cmぐらいの溝が大きくU字形にカーブしており、Uの真ん中にも同様の直線の溝があります。先端部は少し盛り上げてあります。復元図によるとこの東側に掘建柱建物があったようです。

 ここから飛鳥まで直線距離で3kmぐらいですが、反対向きに2kmも行けばこの時代やさらに百年前の武烈天皇の時代にも繁華街として栄えた海柘榴市(つばいち、つばきち)があります。

 飛鳥人がこの辺を往還し同じ三輪山を見ていたと思うとロマンがありますね。

■艸墓古墳

 詳しい地図を持っていても発見しにくい所でした。道から外れて民家の裏の幅50cm程の通路を抜けていくと、小高い丘の上に横穴式古墳の口がぽっかり開いています。

 東西22m、南北28mの方墳、羨道は長さ8.8m、高さ1.5m、幅2mということで、身をかがめながら奥まで入れました。真っ暗で見にくいのですが、奥には石棺らしき物が横たわっています。

 この石棺が唐櫃に似ていることからカラト古墳とも呼ばれるそうです。寄せ棟の蓋のついた家形石棺ということですが、よく見えませんでした。推定年代は7世紀前半終頃とのことで、大化改新前後ですね。

 中はなんだか焦げ臭い火事の後のようなにおいがしました。火遊びしている人がいるのでしょうか。石棺に横たわってみたいという願望を披露された方もおられました。さすがは宿坊研究会です。

■安倍文殊院

 日本三文殊の一つで、大化改新の時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂の氏寺として建立。境内は広く池があり、丘があり、お花畑があり、洞窟があり、と天気のいい日にゆったり散策するにはもってこいです。夕方、夕日を清明公の塚のある丘の上から眺めましたが、なかなか風情がありました。

 御本尊は鎌倉時代の快慶作で日本最大の文殊菩薩(巨大な獅子にまたがり高さ7m.重文)は像高7mの巨像、鎌倉時代の名仏師快慶の作で極彩色をほどこした豪快な造形の仏さま。眷族(けんぞく)の善財童子の愛らしさでも知られる。

 「知恵の文殊」として親しまれ、勉学に励む多くの児童学生達に知恵を授けることで有名であるが、故に受験生の合格祈願の絵馬が沢山かかっておりました。

 本堂前の池に浮かぶ金閣浮御堂は昭和60年に建てられたもので、陰陽師で有名な阿倍仲麻呂像を安置する。お堂の周りを七周まわり納め札を納めるという参拝方法があり、これで清明公の呪力をいただけるらしい。

 お寺もいろんなアイディアを出して、御参りが増えるといいですよね。清明公のゆかりのお寺ということで少々値が張りますが、水晶製のセーマンが寺務所に言えば購入できます(商品棚には並んでおりません)。

■飛鳥寺研修会館&古代食

 今回のツアーでは飛鳥坐神社近くにある飛鳥寺の研修会館、飛鳥寺修徳坊へ宿泊しました。朝のお勤めがないのが残念でしたが、参加メンバーの話をゆっくり聞いたり話したりと交流を深めることができました。

 そして今回のツアーの楽しみの一つでもある夕食は、なんと古代食なのです。古代食とは当時の資料などをもとに、古代飛鳥で食べられていた料理を創作したものです。

 ご飯は赤米、羹は赤米麺にあまご(川魚)の甘露煮をのせてだし汁をかけたもの、それから酢の物、焼き魚、猪肉、果物、にごり酒など食べきれないくらいです。

 他に古代のチーズの蘇に挑戦。蘇とは牛乳を煮詰めたものとガイドブックに書いてあったので、どんな味なのかな? とパクッと一口。「ん?」もう一口。「チーズといわれれば確かにチーズかも!」上手く説明できないのですが思ったよりおいしかったです。

 古代の人々の食事(といっても身分の高い人々の食事ですが)は、品数も多く中々おいしくてヘルシーな感じでした。

■飛鳥坐神社

 用途不明な謎の石造物が多い飛鳥にあって、露骨なぐらいに分かりやすいのが(と言っても酒舟石や亀石などとは、明らかに成り立ちは違いますが)、ここ飛鳥坐神社です。

 そこにあるのは『陽石』。つまり男性の形をした石達です。

 それらが注連縄でしっかりとお祀りされています。さらには女性の形をした石もあります。

 境内を歩くと等間隔でずらりと並ぶ陽石達。壮観です。スーパーキノコというか、どっちかと言えば1UPキノコかもしれません。

 現代から見ると冗談みたいな神社ですが、古代において性器信仰は決して不思議なことではありません。

 出産の成功率も産まれた子供が成長する確率も今よりずっと低かった時代においては、まさに最も直接的で切なる祈りが、この信仰の形には込められているのです。

 拝殿の前には神楽殿もあり、ここは天狗とお多福が夫婦和合の所作をユーモラスに演じる天下の奇祭「おんだ祭り」の舞台です。2月の第1日曜日にはこの神社の露骨度が300%アップするので、興味のある方はぜひ行ってみましょう。

 ちなみにこのような神社は他にもあり、愛知県の田縣神社や和歌山県の歓喜神社などが有名です。田縣神社の豊年祭もすさまじく、御神体を御輿に担いで街を練り歩くらしいデス。

■飛鳥寺

 日本最初の本格寺院。本堂にはこれまた日本最古の丈六釈迦如来(飛鳥大仏)が坐しています。

 日本の仏像史を見ると、まず初めに名前が出てくる鞍作止利(くらつくりのとり)。私は法隆寺の釈迦三尊などをイメージしていたので、こちらの飛鳥大仏ではちょっと印象が違ってビックリしました。

 法隆寺の方が長細いというか、正面性に重きがおかれて扁平な感じがするのですが、こちらの飛鳥大仏は案外厚みのある姿をしています。鎌倉時代の火災で損傷し、大きく補修しているそうですので、そういったことも影響しているのかもしれません。

 太っ腹なことにこれだけの仏様が撮影OKと言われ、ガシャガシャと撮らせて頂きました。

■甘樫丘

 訪れる1週間前に蘇我入鹿の邸宅跡らしき遺構が見つかり、飛鳥でも特に熱いスポットとなった甘樫丘。頂上の展望広場に登ると飛鳥の里が一望できます。

  釆女(うねめ)の 袖吹き返す 明日香風
  都を遠み いたづらに吹く

 甘樫丘に立つ万葉の句碑ですが、天皇に使えていた女性の袖を吹き返す風も(藤原の宮に遷都された後の飛鳥では)、ただ吹くばかりという心情は、ここに都があったことを知る人なればこその心なのでしょう。

 飛鳥から藤原、そして平城京すら遙か彼方の現代では、その気持ちは想像すらもつきません。むしろ日本の中心と言われた場所がこの小さな盆地に収まっていたことに驚き、今回発見された入鹿の邸宅跡のように、拡がる田園風景の中でも足元に埋もれる歴史の存在に胸が揺さぶられました。

 そして万葉集では多くの歌に出てくる大和三山(天香具山、耳成山、畝傍山)。歌を読みながらいつか見てみたいと思っていた山々だけに、感動もひとしおでした。

■橘寺

 本尊は聖徳太子像・如意輪観世音菩薩。聖徳太子誕生の地と伝えられています。当時は、太子祖父の欽明天皇の別宮=橘の宮がありました。山に背を向けて建立されてあり、本堂は東向きにあります。普通南向きが一般的な寺の本堂ですが、南に入り口の無い珍しいお寺です。

 特に興味深いものとしては、本堂左(南)にある『二面石』です。飛鳥時代の石造物のひとつで、左が悪面・右が善面と人の心の善悪を表しています。周囲の段々畑には彼岸花が植えてあり、その季節になれば色彩豊かな風景が想像できそうな、なんとものどかでどこか懐かしいお寺という印象を受けました。

■岡寺

 正式名は『東光山 真珠院 龍蓋寺』、西国三十三ヶ所観音霊場の第七番札所です。また日本最初厄除けの寺としても有名です。

 飛鳥時代の名僧、義淵(ぎえん)が天武天皇の皇子、草壁皇子の宮を賜わり学問所としたのが起源といわれています。本堂には如意輪観音坐像がご本尊として祀られています。重要文化財に指定されている塑像(土でできた仏像)で日本最大の観音様です。

 また本堂左前方には、このお寺の由来とも言われる龍蓋池があります。義淵がこの地を荒らしていた龍をその法力をもってこの池を封じ込めたという伝説が残っていて、池の中にある石がその蓋であると言われています。

 明日香村岡山の中腹に位置し、かなり急斜面のため自転車を置いて登りました。季節の花・木々が見所のようで、秋は紅葉の参拝者でもにぎわうようです。

■川原寺跡

 天智天皇が亡き母斉明天皇のために建立したとされる寺院で、飛鳥四大寺の一つである。

 平城遷都の際に、飛鳥寺は元興寺、大官大寺は大安寺、本薬師寺は薬師寺にそれぞれ移建されたが、川原寺のみは旧都に留まり次第に衰退したようである。

 橘寺の向かいに立地し、礎石の整備によって当時の伽藍配置を再現している。それによると向かって右手に塔、左手に西金堂、中央奥に中金堂を配する一塔二金堂の左右非対称伽藍配置で、ガイドさんに見せていただいた再現CGとあわせて想像をめぐらせると、当時の大規模で壮麗な建築がイメージできる。

 なお、礎石に関しては当時のものは一部のみで、大部分はレプリカで補われているとのことであり、礎石のうえに乗った際の音の違いで確認することができる。

■石舞台

 ゆるやかな坂をあがった見晴らしのよい場所に、巨大な石が積み上げられています。

 当時の権力者、蘇我馬子の墓というのが有力な説。既にあった、いくつかの古墳をこわしてつくられているめ、かなりの権力を持った人物であろうということ、また馬子がなくなった時期に近いことなどから考えられているそうです。7世紀初めのものとされ、飾り気のなさが時代の古さを感じさせます。

 30数個の石でできていますが、70t以上のものもあり、間近で見るととても迫力があります。飛鳥でも一番の観光スポットとのことで、広い石室のなかでも多くの人でごった返していました。桜の季節もまた趣がありそうです。

 地震についての質問に”ここは地盤が固いから。でも今、地震で崩れたらよほど運が悪いですね。”とのこと。(確かに。)これから未来もずっとあの場所で見守ってほしいものです。

■亀石

 川原寺から西に600mほどの路傍にある。長辺4mほどの大きな花崗岩石で、亀がうずくまるような形をしている。腫れぼったい目と顔の両脇に添えられた丸い手が愛らしい。

 酒船石遺跡の亀形石造物が出土するまでは飛鳥の亀石といえばこの亀石をさしたそうなので、飛鳥で売られている「亀パン」も幾つかはユーモラスなこちらがモデルなのでは。この亀石もその目的は不明だが、何らかの境界を示すものではないかと言われている。

■鬼の雪隠・鬼の俎板

 欽明天皇陵の東に位置する小丘の斜面上に鬼の俎板が、斜面下に鬼の雪隠が、道を挟んで並んでいる。昔この辺りに住んでいた鬼が、襲った人を俎板で料理して食し、雪隠で用を足していたといの伝説がある。

 しかし、現在では本来の用途が既に解明され、元は古墳の石室を構成する石材の一部であったと推定されている。鬼の俎板が石室の底部、鬼の雪隠が石室の上部で、現在は扉部分の石材が失われている。

 何らかの理由で、石室上部の鬼の雪隠が90度回転して斜面下に突き刺さった状態になったのが今の姿である。

■猿石

 飛鳥の土地を廻って印象的な事の一つに、奇妙な石造物を多々目にするという事がある。猿石はその中でも特に印象的で一見、猿のようにみえるが、かなりデフォルメされた人間のようでもある。

 何の造形か、その目的等諸説あるが現在通説として、4体のうちそれぞれ「僧」「山王権現」「男」「女」だという。顔もポーズもユニークなので何に見えるかイメージを膨らませるのも一興。まわり込んで見ることはできないが、背面にも彫り込みがされている。

 現在の吉備姫王墓の墓域内ではなく、元は江戸時代に欽明天皇陵古墳の南の水田から掘り出されたものだという。

■天武・持統天皇陵

 壬申の乱で皇位を得、中央集権国家体制を樹立した天武天皇と、その皇后で天武天皇の死後女帝として藤原京遷都を行った持統天皇の夫婦合葬墓である。

 数ある天皇陵の中で、被葬者が確実な数少ない古墳のひとつ。対角長約45mの八角形墳で、東西に延びる尾根の最高所に築かれている。他の古墳のように南斜面に築き、後背地に最高所を背負ってはいない点が特徴的である。

■高松塚古墳

 このツアー最後に訪れたのは、有名な高松塚古墳。思ったよりもこじんまりとした大きさでした。

 ニュースにもなったとおり、壁画は劣化が進み解体補修されることが決定。古墳はシートで覆われており、中の様子はもちろん、外観もよくわかりません。説明によると、気温11度から17度、(なんと)湿度95%で保存されているそうです。

 名前の由来が高い場所に松の木があったから、というのは知りませんでした。そのままですね。

 すぐ隣に壁画館があり、発見当初の現状模写と、見やすくするためにきれいに修正された模写がありました。教科書などでおなじみの4人の女性は”女子群像”、ほかに男子群像、四神の図、日像・月像。

 四神は東西南北をあらわしていますが、南の朱雀は盗賊に荒らされた時に壊されて残っていないそうです。石室の復元模型は、その壊された穴から覗くようになっています。

 被葬者は推測の域で、やはりこの時代はまだまだ解明されていないことが多いのだと感じます。それでも千何百年も昔に、この地で歴史上の人物とされる人たちが確かに生きて、日本の国づくりを進めていたことを実感します。

 外に出ると、まだ遅い時間というほどではなかったけれど既に日が傾いていました。

(レポート:参加者の皆さん)



■関連リンク

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