写経はキレイな字でなくても良い
気軽に、かつ真剣に
私は字が下手な方です。それもある宿坊の住職に「君は字が下手だね〜」としみじみ言われたほどの筋金入りです。ですが写経は字の美しさを競うものではありませんので、キレイに書こうと緊張する必要はありません。
ただ、大切なのは丁寧に書くこと。一つの文字は一人の仏と言われていますが、文字はもともと人が読むことを前提にして書かれるものです。
言うなれば、文字は想いを伝える手段なのだと、私は写経を通して気付かされました。
写経をしているとあまりの字のきたなさに、「下手なんだから仕方ないじゃないか」と、投げやりな字になってくることがあります。特に後半になって疲れてくると、そうした想いが強くなります。
でも下手は下手なりとしても、相手が読むことを考えた字を書けているだろうか。仏様にお供えできるような字になっているだろうか。乱れてくる字と戦いながら、写経はそんな心の強さも試される修行です。
「弘法は筆を選ばす」「弘法も筆の誤り」などということわざも残るほど、書の名人として有名な空海の文字を見たことがあります。すっと筋の通った、カリスマすら感じる美しい文字に、大げさではなく電気が走ったようでした。
多くの人の心を動かし、計り知れない偉業を成し遂げたことと、この文字の美しさとは無関係ではない。ただの筆遣いだけで圧倒されたのは、このときが初めてです。
普段は携帯やキーボードで文字を書く私ですが、「言葉」には「人の想い」を伝える力がある。空海の書から、そんなことを学んだ気がします。そして普段から相手のことを想って言葉を使っているだろうか。相手のことを想って行動しているだろうか。
文字のきたなさから始まった写経が、日々の反省にまでつながっていきます。
坐禅は時間が過ぎれば終了しますが、写経は自分の力で筆を動かさなければ前には進みません。気を配りながら、葛藤しながら。私が写経で磨かれたのは、相手に想いを伝える心の発信力でした。
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